小松市にかつて地下軍需工場があった。
小松市遊泉寺町の石切場跡を利用して、太平洋戦争中に中島飛行機の部品を作っていました。
ほかにも金平町の鉱山跡などにもあったようですし、滝ヶ原町の西山の石切り場跡では製油所が建設中でし
た。軍事機密で詳細は当時を知る古老の話などでしかわからないようです。大領町にも飛行機の部品を作る小
さな町工場がありました。
この山の地主さんの話によれば、地下壕は2キロにもおよび、迷ったら出られなくなるそうです。
2006年の夏に私が訪問したときには、入り口からずっと命綱のロープが張られていて、中は真っ暗でしたの
で、懐中電灯で探索してきました。
地下工場と聞いて、発電機とか工作機械、ボルトやナットや鉄くずなどが散乱しているのかと勝手に想像して行
ってみましたが、何もありませんでした。実はもっとずっと奥のほうにそんな作業用の空洞があったのかもしれま
せんが。
戦時中にはいろいろな物資があったようですが、終戦直後のどさくさに持ち去られた(盗まれて闇市に流され
た?)とかで紛失して工場の跡形もなかったです。
確実にいえることは、小松市の鵜川町の石切り場跡と、金平町の鉱山跡の洞窟で、飛行機の部品の製作が行
われていて、それが終戦後に消滅したということです。
取材当時はこの場所がインターネットで有名になって事故など起きるのが嫌だったので秘密にしてましたが、小
松市内の戦争遺跡が放置され風化していく現状に、今回このサイトで記録を残すことにしました。
遊泉寺地下工場
あたり一体は「鵜川石」とよばれる礎石の山地として江戸時代から開発され、地下に石切り場の坑道が掘削さ
れていた。ここを中島飛行機半田工場の疎開地とするため1945年2月から海軍の管理下で工事を開始し、6月
には飛行機の部品生産も始まった。約8000uが使用可能となっており、工作機械を設置するためにコンクリー
トの基礎が打たれ、敗戦時には100台あまりが設置されていたという。(『米軍戦略爆撃調査団報告書』)。
数ヶ所あったとされる開口部は閉じられ、現在は一ヶ所だけとなっているが、地権者の承諾を得て入壕が可能
である。内部は比較的良好な状態であるが、迷路のような坑道の踏破は容易でない。
『保存版ガイド 日本の戦争遺跡』(平凡社新書
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