江戸時代は「やきもの」が人々の生活の中に広く深く浸透した時代です。
各種の日用品から茶華道用品にいたるまで、多様な「やきもの」が大量に消費されました。
こうした大量消費を支えたのが窯業地です。
江戸時代には、大小の窯業地が全国各地に生まれ、さまざまな「やきもの」を世に送り出しました。
これらの窯業地は、それを領有する藩の指導や援助を受けたものが数多く見られました。中には藩が直接経営に乗り出した
ものもありました。これを藩窯(はんよう)と称します。
若杉窯は当初は庄屋の林八兵衛と陶工の本多貞吉によって創始された窯でしたが、後に加賀藩が藩窯として保護奨励し
「若杉陶器所」として栄えました。
文化8年(1811) 石川県小松市若杉町で庄屋の林八兵衛、本多貞吉によって創始された。
文政5年(1822) 加賀藩が業を継ぎ、文政10年(1827)橋本屋安右衛門にこれを与え「若杉陶器所」として保護奨励し
た。
天保7年(1836) 若杉陶器所が全焼したため隣村の小松市加賀八幡にこれを移し、規模が拡大した。
明治8年(1875) 廃窯。
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庄屋の林八兵衛が若杉で焼き物を始めたのが、再興九谷焼のきっかけとなりまし
た。
2014/03/24 更新!! |
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再興九谷焼の祖、本多貞吉慰霊碑
小松市若杉町にある本多貞吉慰霊碑です。 現在の再興九谷焼は小松市若杉町が始まりでした。 2014/03/24 更新!! |
庄屋の林八兵衛が若杉で焼き物を始めたのが、再興九谷焼のきっかけとなりまし
た。
2014/03/24 更新!! |
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若杉窯の初期の頃の窯の発掘調査が行われた時の記録と現在地の様子。
2014/03/24 更新!! |
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2005年に小松市立博物館で若杉窯の作品だけを一堂に集めた特別展が開催されました。 2014/03/24 更新!! |
1970年ごろまで使われていた小松市加賀八幡町の登窯展示館です。
2014/03/24 更新!! |
1970年ごろまで使われていた小松市加賀八幡町の登窯展示館です。
2014/03/24 更新!! |
若杉窯は、若杉村の十村(他藩でいう大庄屋)林八兵衛が、春日山窯に残った本多貞吉を招き、本格的な窯を築いたのが
始まりで、文化8年(1811)が開窯の時期である。貞吉は、隣村花坂村字六兵衛山に良質の陶石を発見し、これを若杉窯に使
用している。そしてこの花坂村の陶石は、今日まで九谷焼の素地の原石として使用されている。
若杉窯の作品は、いわゆる殖産興業の量産方式による日用雑器が中心で染付の皿・鉢・徳利などの器種が多い。
文様は伊万里風なものと祥瑞風なものがあり、筆の速度の面白さを見せたものが多く、そのほか安南風のものも含まれて
いる。
文化10年(1813)に阿波徳島の勇次郎という上絵の名工が来てから色絵の作品も焼成されたが、それらは赤を主とした伊万
里風な錦手で、磁胎は細かい貫入のある半磁胎のものが多い。
しかしその後上絵の技術も次第に進歩し、呉須赤絵風や古九谷風の作品も作られるようになり、色絵の発色も鮮明となっ
て、今日九谷作品として通っているものもあるといわれている。
また肥前から陶工を呼んでいることから、貿易輸出品としての仙盞瓶のような型物も製作している。しかし、工場の大火で八
幡へ移ってからの作品は、もっぱら染付の日用雑器の量産物が大部分で、優れた作品は極めて少ない。
銘は二重角の中に「若」の字を書いたもの、その書き方が反対になっている左「若」といわれるもの、そのほか「若杉山」「加
陽若杉」と記されたものをまま見ることがあるが、無銘のものも多い。
若杉窯は、江戸時代に能美郡若杉村(現小松市若杉町)に興った陶業です。
若杉村の十村(この辺を治める庄屋さん、有力者)林八兵衛が管理し、操業していたところ、金沢の春日山窯から本多貞吉
が若杉窯にやってきました。
彼は、隣村の花坂村字六兵衛山に良質の陶石を発見しましたが、この花坂村の陶石は、今日まで九谷焼の素地の原石とし
て使用されています。
本多 貞吉は肥前島原の生まれで、青木木米に伴って金沢の春日山窯に従事し、晩年は若杉窯の頭取として働き、加賀地
区の窯業の発展に貢献した名工です。文政2年(1819)55歳で生涯を閉じています。
林 八兵衛は、藩の保護奨励もあって、京都の虎吉や平戸の平助という陶工を招き、また、文化10年(1813)には阿波徳島
の赤絵勇次郎といわれる上絵の名工が若杉にやってくる頃には、人材のそろった一流の窯となりました。
文化13年(1816)、加賀藩は若杉窯を郡奉行の直轄とし、これまでの管理者であった林八兵衛の代わりに下田和兵衛と羽野
源兵衛を任命し、人事の刷新をはかりました。
翌14年には「若杉陶器所」の名が初見し、規模も極めて広大となりました。
当初加賀藩が春日山窯で計画した殖産興業計画がこの若杉窯で完全に成功し、産業的に量産化を実現したのです。
文政2年(1819)、貞吉が没した後、勇次郎が主工となり操業を続け、また、同年加賀藩は他国からの磁器の輸入を禁止し、
さらに翌同3年には陶器の輸入も禁止しています。
これらは、もし違反して輸入した者については、その品を全部とりあげる等の若杉窯の積極的な援護助成につとめていま
す。
そして同6年(1823)までには金沢の橋本屋安右衛門を管理者とし、天保4年(1833)には若杉の姓を安右衛門に与え、帯刀
御免の恩典を与えて厚遇しています。
のち、天保7年(1836)に入って陶器所から出火して工場が全焼したため、窯を隣村の八幡に移し、若杉時代以上の豪華な
建物や土地を得て、藩窯の威容を誇り量産経営を行ています。
しかし、同8年(1837)に勇次郎が職長を退いたこと、隣村(現寺井町)に小野窯が興ったことなどが次第に影響して不振とな
り、明治2年(1869)の版籍奉還により藩窯に終止符をうち、その後若杉(橋本屋)安右衛門が経営する民窯となったが、明治
8年(1875)廃窯となりました。
昭和47年、小松市教育委員会が石川県の補助を得て若杉古窯発掘調査を実施し、若杉町リ(サンクス若杉店の後ろです)
の部の丘陵地を発掘した結果、連房式登窯を検出し、物原からは大量の陶磁片が出土しました。
まず染付では、鉢・皿・壺・甕・瓶、それに型物の向付・水滴・香合・文鎮・硯屏・火入などの器種があり、芙蓉手様式や祥瑞・
古九谷・伊万里風の意匠構成を示すものが多い。 色絵では、赤絵細描の鉢、瓶などのほか、古九谷青手様式の緑や黄・
紫・紺青の四彩を用いた塗埋手の技法のものがあります。
他、白釉・青釉・瑠璃釉・灰釉・鉄釉・緑釉、ほか唐津風のものがあり、これらには鉢や花瓶・碗・盃台・瓶などの器種があり
ます。また、出土品中量的に多いのが陶器であり、日用品から雑器まで、その製品は広範囲に及んでいます。
平成4年から6年まで、石川県埋蔵文化財保存協会が、八幡遺跡の俗称茶碗屋敷と呼ばれている地点の発掘調査を実施
し、登窯や物原から多量の遺物を発掘しました。
中でも注目されるのが、紀年銘資料が出土していることで、「天保七□」や「天□壬寅」など天保7年、同13年の円錐ピン土
型片、天保8年、同9年、11年、13年、15年、16年、嘉永5年(1852)の色絵や染付の暦手文碗、「文政七年 興願□ □橋本
屋」銘の底部片や「天保三歳 施主橋本屋 安右衛門」銘の香炉片が出土しており、天保7年の陶器所火災以前に既に八幡
に窯があったと見られています。
このように若杉窯の作品は、いわゆる殖産興業の量産方式による日用雑器が中心であらゆる器種があるのが特徴です。
銘は、二重角の中に「若」の字を書いたもの、その書き方が反対になっている通称左「若」といわれるもの、そのほか「若杉
山」「加陽若杉」と記されたものをまま見ることがありますが、無銘のものも多いようです。
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