小松だよ!小松市の史跡・古道探訪!!

石川県 小松市

軍事施設建設で立ち退きとなった滝ヶ原町の集落


小松市内に残る戦争遺跡



旧那谷村 字 滝ヶ原東口の白山神社跡



戦時中に強制立ち退きで消滅した滝ヶ原町東口集落



昭和19年(1944年)

滝ヶ原東口集落に立ち退き命令

昭和20年(1945年)2月

海軍長浜部隊が駐留。
運動場に宿舎建設、東口村にダムを造り、発電所を建設するために、竜ヶ面に工事 場や道路を作る。

那谷町に駐留してきた長田部隊は、滝ヶ原西山石切山をならして、製油工場を建設す るとして、江沼郡の各町村に工事人夫を割当徴収する。



戦時中の滝ヶ原町の様子


供出

1、軍馬用の乾草何十貫、山藤何束、これを隣組で大八車に積んで動橋駅まで運ばねばならぬその帰路の 苦しさ。
2、兵器原料として金物の供出、青銅の大火鉢、瓶掛、手あぶり、仏前の三ッ具足を始め、金属品は殆ど、 蚊張のつり手まで供出。

3、川では祖先からの愛林、七十何年の美林も一言の挨拶もなく伐倒されていく。
 我子、兄弟、良人だけでなく山も米も道具も労働も一切を捧げて『お国のためには』の一言にいさぎよく『出 しましょう』と言わざるを得ない胸の裡。

4、その代り肥料は年々減量、不良となり収量は減っていくばかり。病虫害にほ施す術もない。

5、繁盛するのは軍需産業ばかり。禿頭の社長が工員を募集に来る。


日米開戦

l、本当に勝てるだろうか、神風は本当に吹くだろうかと聞く老がいる。然し始まった戦争は連戦連勝、皆有 頂天に喜んだ、しかし提灯行列はなかった。

2、国内では先には生活必要物資統制令が公布され、九月には米穀国家管理法が布かれ、米も衣類も酒も 煙草も塩も砂糖も切符制配給制となり、後には貯金まで封鎖された。

3、百姓は米飯は食べられたが都市生活者は猫も食べない様なまぜ飯だった。塩が足らないと三里の路を 往復し海水をくみに出かける主婦、栄養を補うためには柴山潟までたんがら貝をとりゆく嫁さん達も多い。
 金沢駅の待合室などで弁当でも食べようものなら栄養失調の青い手がニューと出される。

4、この頃の外出着は男は戟闘帽に国民服、リュックサックを負って巻脚絆に地下足袋。女ほ黒い筒袖上 衣にモンペ姿、地下足袋に国防婦人会の白襷(たすき)、之が公式の時の姿である。
 モンペは戦時強要の流行服で裁縫から習わねばならないのが実情だった。



昭和二十年二月、我海軍敗残部隊が滝ヶ原に駐留して釆た、長浜部隊という。
乗組む軍艦がなくなった部隊だという。

 其筋からの通知があるや否や産業組合農業会事務所、青年会館を占有し作業を始める、運動場に宿舎 建設、東口村にダムを造り発電所を建設するとて竜ヶ面に工事場や道路を造る。(東口村は十九年退去命 令で移転)

一方、那谷に駐留して来た長田部隊は、滝ヶ原西山石切場をならして製油工場を建設するとて同じく入村 し、江沼郡各町村に工事人夫を割当召集し事務員も来村してくる。之等二部隊の駐留により村内各家の納 屋、小尾等に兵や工事人夫などの宿泊人を割当てられ畳がわりにパネルがどんどん作り出され、工事関係 の製材機、レール鉄管、パイプ、煉瓦、間地石、セメントなどが運び込まれてくる。

他方個人として近親を頼って、関東、関西辺から子連れの人たちが疎開して来て、これ等と一緒になりマン ゴロウ、坂ヶ市という新部落が発生するようになり、村内は俄かに騒然として喜ぶ者もいるが将来どうなるこ とかと心配するものもいる。

 米軍の日本本土空襲が盛んとなり、B29が頻繁に現われ、灯火管制も整備したが、全国重要都市が次々 と空襲の戦火に焦土と化し、日本敗戦の様相は人には言えぬが一人一人の胸に直感されてくる。


盛夏七月、夕食後突如とLて空襲警報がなる。管制灯にして飛出すと、西方の空には焼夷弾による空襲の 火炎が花火の如く飛び散っているではないか。アッ!福井市の空襲だ!!
立ちつくす程に真紅の火炎は空一面を焦がし炎の縄を切り落す如く遠山の上に落ちつづける。
無間地獄の再現かと身震いを覚える。女達はアー、アッと叫び続ける。
B29が今北陸最初の空襲に、福井市民を焼き殺しているのだ。
越えて八月二日薄明の頃東北の天空が一面晃々として淡紅をおび寂として音はしないが、ただ事とは思え ず、ニュースを入れれば八十余kmを隔てた冨山市大空襲の光芒であることが判った。
富山市全滅の日だ。誰言うとなく『次ほ金沢と小松だ!!』

八月十五日の旧盆の日、村内に溢れていた長浜部隊などの兵士たちは、蜘蛛の子の散る如く、一瞬にして 姿を消した。


引用:『小松市滝ヶ原町史』


かつて滝ヶ原に東口の集落があった痕跡は、「東口橋」という石橋の名称として残るだけです。

川を渡ったところに6世帯ほどの家屋があったようですが、耕地整理で消滅しました。





明治42年の地形図(国土地理院)

滝ヶ原町史によると、東口集落ってのは他からやってきて住み着いた人たちの小さな集落でした。
明治時代の地形図には、東口橋を渡ったところに住居あるのが分かります。







東口集落跡の全景
(写真中央右側付近)
墓地から東口橋のある方向を撮影。現在は耕地整理によって住居跡の痕跡はなく、右側に農道が続くだけです。




林道上に白山神社跡がある。

鬱蒼とした山の中にあり、意識的に見ないと気付かない。




東口側
ここにダムと発電所を建設しようとしたようです。



当時を知る古老の話では、6世帯ほど家屋があったようですが、戦後の耕地整理事業で、
住居跡は田んぼとなってしまった、ということでした。

なぜ立ち退いたのか?という話は不明ですが、滝ヶ原町や那谷町の民家の納屋などに、
兵隊が分散して寝泊りしていたということです。



西山石切山

第三海軍火薬廠滝ヶ原工場建設(未完)
(石川県史現代編2より)

中に機械を置くために整地してコンクリートで固めていたという。

それに併せて、鉄道の建設も行われ、電話線を引いて、線路部分に砕石を敷いたとこで終戦 となり、
戦後、付近に県道ができたときに線路跡はちょうどいい農道になったという。



参考文献
『小松市滝ヶ原町史』
『奈多谷風土記』




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