防空監視哨とは、飛来する敵機(友軍機も)の爆音・機種や進行方向を把握し、報告する任務を持ち、集まった情報で、
敵機の爆撃目標を推定し、ラジオで放送する。レーダー技術の立ち遅れた日本の探知網としての唯一の組織で、一組八名
ほどで、三日に一日、二四時間勤務でした。この立哨台は、小松市で二番目に高かった。トップはコマツのプレス工場。
富山、福井の空襲時には当直全員が徹夜で監視しておりました。
防空監視哨員とは、昭和一二年に制定された防空法第六条に基づき県知事より指定を受け、防空従事者として監視哨
に勤務する者で、義勇消防団の団員的な性質をもっていて、小松市とか大聖寺とかの警察の管理下にあった。
哨長は土地の名士が就任し、哨員は一般的に自営業者であったが、戦争の激化に伴い、応召者が増え、欠員補充のた
めに工場に依頼した。当初は四日に一回、二四時間勤務であったが、三日毎の勤務となった。小松の防空監視哨は、小
松警察署(現在の小松絵本館)の屋上にあった。なお、昼間、空襲警報が発令になると、海軍小松基地の航空機は全機空
中待避を行い、小松の空は爆音に埋め尽くされ、迎撃などは全くなかった。
当時の日本の防空監視システムは監視哨頼み。レーダーは一部のみで、米軍と比べ、雲泥の差があった。監視哨での
発見情報は、県警防課へ直通電話で報告され、県警防課 は数カ所からの情報を糾合して中部防空司令部へ、防空司令
部からNHKへ……放送となる。
ラジオで、「B29の梯団(ていだん=編隊)が太平洋上にあり」と報じられた時には伊賀上野付近に、伊賀上野上空と報じ
られた時は、既に、富山市は空襲下にある状態であった(もっとも、早くても対策もなかったが)。 立哨中に見た米軍機
は、グラマンTBF・2アベンジャー2型雷撃機で、夜間飛行のボーイングB29は、爆音のみで遂に見ることはなかった。TBF
は、グラマン社からGEに移りTBMとなる。
哨員の特権?として、国鉄に乗車する時に、必要な証明書が簡単に入手できました。当時は、国鉄の輸送も軍事優先
で、通勤通学以外の乗車には、乗車を必要とする旨の証明書が必要であった。
映画館もビリヤードも無料で、いつでも遊ぶことができた。しかし、戦争末期の緊迫した時期に、映画館・小松館は、客が
いなくても、なぜか午前中から、上映していて不思議だった。
引用:『濱田の今昔 川筋ものがたり』
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